「東スポ」の「清水成駿の馬単三国志」の比喩について。
《弥生賞》の予想の前振りの文章に、1〜12Rまでの勝負を、料理の比喩で語っている箇所がある。
だいたい、こんな感じ。午前中に万馬券をあてても、最終が終わってみると収支はプラマイ・ゼロ。これは贋の的中で、競馬の醍醐味はメインを当てることにつきる。河豚鍋(関東表記)に喩えると、てっさ、ブグチリは、メインの雑炊までの前座だ、云々。
???? これはなんだ? もちろん料理は好き嫌い、つまり趣味判断、どう食べようが個人の自由だし、メインを当てるのが競馬、というのもよい。だが、河豚ですよ、河豚。誰が雑炊のために、てっさ、ブグチリのような「めちゃうま」なものが存在する、と思うのだろうか。ラーメン出汁のための鶏ガラか?
いや、しかし、関東のグルメライター連中が河豚について書く文章には、申し合わせたように、「…そして待望の雑炊である…至福の…」とある。「やめてくれ〜」。
確かに雑炊は旨いし、河豚なら贅沢、料理屋でも決まって、頃合になると女将が作ってくれるわけだが、それはあくまでお座敷の、私的な、内証の、非公式の、でもこうやると「うまい」というレベルの楽しみに過ぎない。それはあくまで自宅レベルの作法なのではないか?
うまいものは、うまい、というのでもまあいいが、てっさ の、あのザザザっつと…てっちりにしても、あれは、ごった煮ではないのどっせ。関東のグルメライター連中は、鍋と汁を混同しているのだ、雑誌の鍋特集を見よ! ひどい(塩ちゃんこ、というのも不思議…)。
煮え煮え、からの脱出に生き残りはかかっている。馬券も煮え煮えにならないうちに手を打たねばならぬ。
煮たもの、とは腐ったものの集合に入る。レヴィ=ストロースの神話論「生ものと火を通したもの」を読むべし。そうすれば、競馬における構造主義とは何かもわかってくるぞ!
それとも、西原理恵子の傑作「もっと煮え煮えアジアパー伝」を読めば、雑炊=くたくたに煮たもの(この場合は夫婦の愛)が華ではないことがわかるというものだ。
「東スポ」の記事は、グルメライタ−業界の不粋の連鎖の、その空気の中で書かれたものではないだろうか。「…をいただく」という言い方も、「…を、嬉しく思います」と同じく気色悪い。宮さんか?
それでも競馬である。アドマイヤオーラーが、武豊がすべてを救ってくれるかも知れぬ。
払い戻せれば、河豚を食い放題だ。ポン酢文化が未発達の関東では、雑炊ちょっこーコースでも仕方がない。たしかに関東でも河豚が流行っている、それにすぐ飛びつく、というのもJRA銀行に預金している者にとってはそれなりの作法ではあろうが…ぎらぎらするべし。馬券がすべての世界だから。
ただ、関東のグルメライター連中には、もう少し考えてから書いてもらいたいと思わずにいられない。